思考実験室

日々のつれづれ

「子どものために頑張る、は危険思想」、は?ばーかばーか

ついかッとなったので、「子どものために頑張る、は危険思想」に対して反論します。

どうも、1歳半の子どもを持つ親です。

私たちは子どもに頼まれたから子育てをしているのではないのだから、どれだけお金がかかり、時間・労力といった犠牲を払っていようが、子どもにとってみれば知ったことではない話だ。子育ては、親である私たち自身が、勝手に始めたことであり、別に子どもから頼まれたわけでもない(生物としての本能を含む)と自覚すべきだろう。

これは同意。どれだけお金がかかろうが、それは親が勝手に始めたことであると。しかし同時に氏は、児童手当の所得制限に対して苦言を呈している。

彼のように、理性的(であると自覚あるいは勘違いをしていそうな)な人間は、なぜ児童手当の所得制限に対して文句を言うのだろうか。所得制限そのものは、政策としてはここ十数年の間に生まれたものなので、一人目がいた時点で気づける問題である。二人目も欲しい、三人目も欲しい。その本能を抑制し、所得制限を納得することはできなかったのはなぜなのか。よっぽど子どもじみてはいないだろうか。

また氏は、妻が不在のときの育児について、自慢げに以下のように述べていた。

以前、こんなことがあった。 君たちの母がヨガの講習のため3週間ハワイに研修旅行に行った時のことだ。その間、君たちの面倒は私が一人でみることになった。仕事をしながら、9歳、7歳、5歳の朝の支度に保育園の送り迎え、夕食、お風呂、掃除洗濯、寝かしつけ……。いつもはその大半を担ってくれている妻に改めて感謝しつつ、私はできるだけ時間と労力をかけずにすべてをこなす方法を考えた。 一番やっかいだったお弁当は、レンジでチンをする「サトウのごはん」、ふりかけ、自然解凍の冷凍食品を駆使して、3分で作っていた。

ワンオペでの育児は大変であると想像できる。私も朝食の用意、朝の身支度屋からゴミ出し、保育園の送り(たまに迎え)、お風呂、夕食の用意や後片付け、寝支度と寝かしつけ、そして保育園の連絡ノートの記入や明日の保育園の準備などを平日は行っているが、これは妻も子どもの見守りや食事の世話、洗濯といった家事を別軸で動かしてくれるおかげで、私の家は回っている。一人で、子ども3人はとてつもないと想像できる。

しかし、

果たして1時間で済む話であろうか。5歳の子どものお風呂や寝かしつけで1時間はかかると思うが、果たして彼の言葉に嘘偽りはないだろうか。9歳や7歳の兄姉に、弟妹の世話をさせてはいないだろうか。9歳、7歳、5歳には、適切な栄養バランスを考えた食事を与えていたであろうか。たまに食べる外食、デリバリーでもよいが、たった3分で作った冷凍食品で構成されたお弁当を食べる子どもたちは、氏の勝手に振り回されてはいないだろうか。

ここで法律を根拠に、氏の家庭内の家事・育児を検討してみる。

教育基本法 第10条 父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

なるほど、冷凍食品を駆使し、タイパよく効率的に家事をこなすことは、現代社会においては涵養すべき資質なのかもしれない。しかし、生活習慣病が現代では問題になっており、食事に気にかけること、適切な栄養を摂取することは、それも「生活のために必要な週間を身に付けさせる」ことも、保護者の責任であろう。その点では、氏の育児論は教育基本法第10条からみて不適格であるといえよう。

子育ては、やらされていることではない。私たちがやりたくてやっていることだ。

論理立てとして、上記の結論はすり替えに他ならない。「私たちがやりたくてやっていること」であれば、「やっている努力を子どもに認めさせる」ことは押し付けるなという話であって、氏の「私たちがやりたくてやっていること」が、子どもの心身の健康や成長を脅かすようなことになることは、家庭教育を放棄しているといってよいだろう。核家族で子どもを見る家庭が増えて、相対的に子どもに関わる時間が多くなった父や母が、家事に時間を割く割合を減らすためにさまざまな道具を導入することは合理的判断である。しかし家庭には、家庭の役割というものがある。それを氏はないがしろにはしていないだろうか。

追記

子どもたちが一番に頼る人は親なんだよ。「私たちがやりたくてやっていること」なんて甘っちょろいこと言うのはやめろ。「やりたくやっている」じゃなくて、やらなきゃ子どもは死ぬんだよ!!!!!